東京オリンピックのフィナーレに宮沢賢治「星めぐりの歌」が歌われた。なぜか考えてみた。
宮沢賢治は、児童文学者としての名は通っているが、地質学、農林学、気象学の太宗でもある。賢治は気づいたことを手帳に書き留める癖がある。その彼の手帳に西郷隆盛の名があった。
隆盛は西南の役のとき鹿児島の城山で自刃した。それから国賊としての汚名を被せられた。
明治天皇は酒豪で、毎夕、酔いが回ると決まって西郷の思い出ばなしを側近にされた。
毎日、同じ話を聞かされる側近は辟易していた。
庄内藩は、新政府軍に抵抗し、そして敗れた。藩主 酒井忠篤は厳しい処分を覚悟した。しかし、西郷隆盛の下した裁決は寛大なものだった。藩内には、感謝と尊敬の念が広まっていった。明治3年、藩主と家臣70名余が鹿児島に赴き三カ月の留学をした。
西郷の門下生になったのだ。そこで訓えられたことを綴ったのが『西郷南洲遺訓』である。そこには、こう遺されている。
「政の大体は、文を興し、武をふるい、農を励ますの三つに在り。その他百般の事務は皆この三つの物を助けるの具也。」 西郷は、農業こそが国の基(もとい)と訓えた。たとえ工業の振興といえども例外ではない、と説いたのだ。
明治天皇は、西郷隆盛の名誉が回復されると、ピタリと西郷の話はされなくなった。
農業と沿岸漁業の淵源をたどれば、森にたどり着く。
北海道 留萌の海岸にニシンが押し寄せてきた。そのとき海は牛乳を流したように白くなった。ところがある年から、ニシンがこなくなった。20年ほど過ぎて、浜のお母さんたちは「100年かけて100年前の森に戻そう。100年前の海に戻そう。ニシンを呼び戻そう」を合言葉に、はげ山にカラマツを植え始めた。昭和63(1988)年のことである。
10年かけて植えた苗は40万本をこえ、雨が降っても川は濁らなくなった。絶滅したと思っていた日本ザリガニが戻ってきていた。そして、平成11(1999)年3月18日、留萌の海は白くなっていた。ニシンが戻ってきたのだ。
森を乱伐し、川の水にミネラルを取り込めなくなり、海藻が消えた。そして、海が盛り上がるほど押し寄せてきていたニシンが姿を見せなくなった。
そこにまた、ニシンを呼び戻すのに40年以上かかったのだ。
忘れてはならないのは、栄養豊かな水にするのは磊々(らいらい)とした岳ではない。緑豊かな森に棲む微生物たちなのだ。水に溶けない鉄や銅、カルシウムなどのミネラル分をフタル酸などの酵素を使って、水に溶かしこんでくれているのは、里山の小さな生き物たちなのだ。
「地球にやさしい」という言葉がある。まるで地球を見下げた物言いだ。だが実際には、森に棲む小さな生き物に、一枚の葉っぱが創りだすブドウ糖の雫に、生かされているのだ。それがなければ1秒たりとも、いのちをつなぐことができないのだ。
自由経済活動が最優先の終着に待っているのは、ほんの一握りのリッチ層とそれ以外のプアー群である。経済至上主義は陰影を濃くすることを知った。
これからの社会を構築していくヒントは、古来より日本人が心の真ん中においてきたアニミズム(地霊信仰)にあるように思う。宮沢賢治も西郷隆盛も同じ方向を標榜していたように思っている。
それは、自然に抱かれて、つつましく生きるということである。
コロナ禍の暗雲の中で、私たちが放置されてきた雑木林に木洩れ日がとどき、樹々を風が通るようにしようとしたのも、時代の風を感じたからかもしれない。
私は、子供たちに自然のふしぎと大切さを伝えるために紙芝居を演じているが、ここに加えた絵は、紙芝居用に描いたものである。
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