集落から少し離れた山の中にポツンと暮らしているおばあちゃんがいた。フキノトウを採りに行くとき、畑で姿を見かけた。鹿にホウレン草を食べられたとか、イノシシに里芋畑を荒らされたとか、話をされた。やさしい話し方だった。熊が庭の柿の実を食べにきた話しもされた。窓越しに星明りに浮かぶその姿を見ていたという。「こんなもので腹いっぱいになったろうか。冬眠に入ることができるだろうかと心配になった」と話された。山里では、熊も猪も鹿も共に暮らす隣人だ。町の人のように騒いだりはしない。山里のひとはやさしい。自分よりも相手のことを先に考える。帰りに馬に喰わせるほどの葉野菜(折り菜)をもらった。
山里暮らしをはじめた私に、山菜の保存の方法や里芋のつくりかた、畝の土寄せの時期など、土と共に生きる知恵を教えてくださった師匠だ。久しぶりに会ったので一緒に写真を撮らせてもらった。ゼンマイは茹でたときには、ムシロいっぱいに広げるが、揉みながらうどん玉のように丸めていくことも教えてもらった。詳しくは別にアップします。
こんなことがあった。ある夏のこと、孫たちが遊びに来ていることを知って「残り物の西瓜があるから一輪車で取にこらァれヨ」と電話があった。手でも持てるのにと思いつつ一輪車を押していった。「ここにある西瓜みんな持って行ってくたはれんケ」 観ると土間いっぱいに西瓜があった。一輪車の意味が飲み込めた。西瓜の大好きな孫娘は大はしゃぎだった。西瓜はどれも甘かった。「残り物の西瓜」はこころの負担にならないようにという気くばりのまくら言葉だった。
落葉を入れて耕し、育て、収穫する。そしていただく。山に感謝しつつ、春は、フキノトウ、ここみ、わさび葉、コシアブラ、ウド、タラノメ、野ゼリ、ゼンマイ、ワラビそれからシイタケなど自然の恵みをいただく。お日さまと雪と雨とが育ててくれた里山からの贈り物だ。人間社会が複雑に高度化し、なかなか働き甲斐が見つけにくい社会に変貌してしまった。山里には、本来の人としての生き方ができる懐の広さがある。
私たちは経済的に発展しすることが「善」だと教えられ、またそれを信じて走りつづけてきた。しかし、ロボットが作り出す大量のモノを浸透させていくには地球は狭くなってきた。ドイツの作家ミヒャエル・エンデが1973年に発表した『モモ』という小説がある。灰色の紳士に時間をだまし取られ、笑うことを忘れて、顔をこわばらせて、がむしゃらに働く人ばかりになった。楽しみを忘れた人は円形劇場を捨てた。その廃墟になった円形劇場に一人の女の子モモが棲みつく。やがてモモは、そのだまし取られた時間を灰色紳士からとりもし、人びとは、忘れていたやさしさを思い出して笑顔になっていくという物語です。里山にはモモがいるように思う。
この煮しめも、男一人暮らしを不憫に思って、夕食の仕度に取り掛かる少し前に、となりのおばあちゃんが届けてくださった一品です。とてもおいしかった。みんなに支えられられながら一人暮らしています。家内も今月の半ばにくることになっていたのですが…。止むを得ない所用でこれなくなりました。この味を覚えてくれたらいいなぁ、残念。
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